追憶の HAYAMA 80TH(笑)

今回はすごく私的な話です。長い話でかつ内容がないのでお暇な方のみお読みください。葉山を舞台にした誰でも経験のある大学の頃の馬鹿騒ぎの話です。

82年から4年間、私は葉山で大学生としての生活を送っていた。80年代の前半といえば時代的には大学生の黄金時代が始まるころ。とにかく大学生(とくに女子大生だが)といえばなんでも許される時代で、大手をふって歩いた頃である。テレビでは、オールナイトフジ、ラブアタックなどバカ大学生番組が幅を利かせ、夜の街でもディスコでも大学生であれば、どこでももっとも恵まれた待遇を受けることができたころだった。

そんな時に大学生になったわけだが、両親は海外や国内で転勤中で、私は4歳上の兄と2人で葉山の一軒家に住むという自由な環境にあった。
家のロケーションは海まで歩いて10分少々。親なし、車付き。広くはないが、一軒家に2人なので友人を泊めることができる。なおかつ、「親元を離れたかわいそうな兄弟」には電気・水道・ガスのいわゆるライフラインについては仕送りと別会計になっていて保証されていた。

車の免許を取得したばかりしかも遊びたい盛りの友達たちがそんな親もいない、海もあるような恵まれた家をほおっておくはずがない。あっというまに兄弟の住んでいた一軒家は友人達のクラブハウスと化していった。彼らにとって我が家は安く上げるコンパの場所としてはうってつけだったらしく、月に一度は大人数で飲み食いをした。一度は一階で兄のサークル仲間が、二階で私のクラスの友人が飲み、海へ出て暴れ、建築中の海の家の材木で大暴れしたこともあった。(ごめんなさい、もう時効でしょう)そのまま30人近くが雑魚寝したが、あれが我が家の最高宿泊人数だったと思う。

コンパ会場となった我が家だったけど、そのまま葉山が気に入って我が家に居着いた友人達も多かった。すでに兄だけで住んでいた時から、「常にいる友人」や「深夜に車でくる友人」はいたけれど、程なく私の先輩や高校時代の友人、大学の友人などが訪れ、短長期ステイをするようになった。週末に車で来て、月曜の朝に帰るなんてのはかわいいほうで、1ヶ月滞在、一夏滞在で葉山から通学、という先輩・後輩もいて、住民票を移したほうがいいとも思ったほどだ。

何人も泊まり込んでいったい何をしていたのか。最近「俺達の旅」というドラマが再放送されたりリメイクされているが、中村雅俊のようにシリアスではないにしろ、まああんな生活の拡大版のようだと思えばまず間違えはないだろう。夏は海、海、海である。旭屋のコロッケとパラソルを持ってほんとに朝から夕方まで海であそんでいた。不思議とマリンスポーツ云々をするやつはいなかった(怠惰なのだ)。当時は早く日焼けしたほうが偉かった。よく読まれていた雑誌ポパイでは春先の号から「気分はもう夏!」などというあおるような特集が組まれる。ゴールデンウィークに森戸で日焼けしようと試みたのはうちの兄弟だけだろう(当然日焼けせずに風邪をひいた)。もっともわれわれは葉山の夏はヨットが浮かぶ5月頃から10月までが夏だといまだに固く信じてはいる。

家に帰れば安い酒、ウィスキーならホワイト、ビールはサッポロジャイアンツ、を飲みながらだべり、深夜放送のテレビを見、レコードをかけ、ギターを弾くというもの。あるいは練習、曲作り。みんな何らかの形でバンドをやっていたのでそんなことが多かった。また車があったのでキャノンボール(古い)と称して海岸134号を走り箱根の駐車場をゴールにして湘南各地から車を走らせたりもした。言い訳をすると暴走行為ではなく、きちんと信号をまもるというのどかなものだ。それどころか途中で江ノ島でラーメンを食べたり(笑)してるのでぜんぜん競争ではなかった。エアコンもステレオもない車でよく走ったと思う。また我が家を単にベースキャンプのように考える不届き者もいて、家をベースに江ノ島や大磯ロングビーチ、箱根小湧園あたりまでナンパに出かけたやつもいる(当時はこのあたりに女子大生グループがいた、のだそうだ)。もっともこの地域は狭いので、昨日声をかけた子は実は昔の誰それの彼女ということで恥をかいた話は多く、成功した話は聞かない。そして朝になると、当時はコンビニもなかったので、兄が客人たちにイワシ(20本で100円ぐらいの時もある。安い)を焼いてご飯を炊き、みんなで朝ご飯を食べて、また爆睡し、夜に備える(笑)というような生活だった。



朝になればその中でも何人かはバイトや学校、バンドの練習に東京、横浜へ行くが、そのまま寝ている者もいる。帰れば寝てた者が「おかえり〜」といって勝手にご飯(誰の米だ?)を炊いて迎えている。庭には知らない男(友人の友人だったりする)がサンオイルを塗って寝そべっているといった案配で、人数が増えたり減ったりしていることもあった。でもそのうちに気にならなくなるものだ。

懐の関係上あんまり外食はなかったが、その当時はどんなお店に行っていたかというと、一番お世話になっていたのはデニーズ(笑)かもしれない。デニーズも今と違って、もうちょっとオシャレ(笑)な場所という位置づけだったころだ。東京の環八沿いの瀬田のデニーズ、プレストンウッド、イエスタデイが話題になるちょっと前といえば判ると思う。この近辺には逗子の渚橋の隣りのデニーズしかなくよく行った。今も海が見えてちょっといい感じのデニーズだが、仲間の中には必ず灰皿やケチャップをいただいて帰るものもいて(ごめんなさい)家のなかには彼らがおいていく戦利品が増えていった。この手のお店ではその他にはすえひろ5、いまはマクドナルドになっているイエローサブマリン(ミニFM局があった。)などへも行った。あと、江ノ島周辺だと、海犬茶屋(なぜかSEADOGよりこっちのほうがよくいった)とかへいったりした。

たまに女の子が来ると(めったになかった)、当時はフィリップマーロウにちなんでかたゆでたまごがあった出来立ての秋谷のマーロウに行ったりもした。当時は今以上にお洒落なお店だったが優しい前オーナーご夫妻がいていい雰囲気だった。男女に関わらずしゃれてごはんの時には森戸の珠屋の向かいにあったアンティパスト菊水亭へも行った。ここはさかのぼればガチャコとかペコとか名前がついているかき氷なんかを出す浜茶屋に近いお店だったのだがいつのまにかイタリア料理店、それも相当美味しいお店になっていた。赤白チェックのテーブルクロスとテラスが懐かしい。

食べ物ではそうでもなかったが、着るものは葉山マリーナで調達していた。安くて丈夫でそこそこかっこのつく葉山マリーナのトレーナーは何枚買ったか判らない。今ワードローブを調べても色の褪せかかったのも含めトレーナーが5枚、ポロシャツが3枚ある。当時はボートハウス、プレッピー、BEAMSといたお店がはやった時代なので、トレーナーにもブランドがあった。葉山周辺ではヨットハーバーブランドが多くあり、葉山・逗子・佐島・シーボニアなどでオリジナルのものが存在し、そこそこの知名度があった。これを着て上京すると「お、葉山マリーナ」などと好意的にいわれたりもしたが、地元ではお買い物のおばさん達も来ていたりしてちょっと恥ずかしかったりもした。しかし皮膚の一部のようにいつも着ているので着たまま葉山マリーナに入ってしまうのが一番はずかしかった。

毎日がお祭り騒ぎ。当然そんな環境下で勉強ができるはずもない。4年で卒業を控えていた兄は、学園祭の実行委員長をやったせいもあり、かわいそうに卒論が提出日に間に合わなくなっていた。しかし、そこは長年兄にメシを食わせてもらっていた客人達である。その中からドイツ語が出来る複数の客人によりドイツ語翻訳部隊が編制され、あっという間に兄の卒業論文が流れ作業のように仕上がっていった(笑 もう時効だろう)。無事兄も卒業ができ、商社マンへ化けていった。



兄が卒業し就職してからもそんな生活は4年の半ばまで続けた。もっとも3年から学生企画団体(かなり恥かしい)に入ったり、バンドが忙しくなったり、人並みにスキーに行ったりと東京の活動が増えた。また友人達もそれぞれ専門課程に入り忙しくなったり、本格的にバイトを始める者もいて必然的に居候も減っていった。それでもドライブイン代わりに遊びに来る友人は多く、夏や休みの日には同じように遊んでいた。

私の単位取得は文字どおり綱渡りで、フランス語の試験を一言もフランス語を書かずに乗り越えたりして切り抜け、卒業は奇跡的に留年せずに出来た。夏休み明けで日焼けでぼろぼろに皮がむけた汚い顔で面接に行き「キミ楽しそうだね」とイヤミをいわれながらも内定をもらい無事サラリーマンへ化けることができた(当時はカンタンに就職が決まったのだ)

居候たちも無事、保険屋、商社マン、医者、広告マン、公認会計士、放送作家などに化けて今ではいっぱしの社会人のような顔をしているのがおかしい。もう今となってはみんなこんな生活が出来るはずもなく、殆どは子供もいるいいパパになっているが行方不明になっている人もいる。これを見てぴんと来たら連絡して欲しい(って無理?)

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